イタリア
ヴェネツィア

 ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア北東部にあるヴェネト州の州都でヴェネツィア県の県庁所在地です。過去にはヴェネツィア共和国の首都でした。
古来はラテン語でウェネティア(Venezia)と呼ばれ、英語でベニス (Venice)、フランス語でベニーズ (Venise)、ドイツ語でヴェネディヒ (Venedig) と呼ばれています。日本語では表記の揺れが激しく、イタリア語から来たものでもヴェネツィアを始めとして、ヴェネチア、ベネチア、ベネツィア果てはベネティア、ヴェネティアなども呼ばれます。英語由来ではヴェニス、ベニスなどと書かれます。ちなみにヴェネツィア方言ではヴェネスィア(Venesia)となります。
 
ヴェネツィア
 
 ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そして、アドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。元々はただの湿地帯でしたが、6世紀頃に東方からゲルマン系諸族やフン族がイタリア本土のヴェネト地方に侵入してきたため、住民がこの湿地帯へと避難したことから街の歴史が始まりました。避難した先が現在の「トルチェッロ島」です。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けることになったようです。
 アドリア海沿岸地域は元々ビザンティン帝国の支配下にあったため、ヴェネツィアも同じように支配されていましたが、697年に初代総督を選出して独自の共和制統治が始まりました。
 9世紀はじめ、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣し、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになりました。このときにたどり着いたのが現在の「リアルト地区」です。810年にビザンティン帝国とフランク王国との間で結ばれた条約で、ヴェネツィアはビザンティン帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石となりました。当時、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的で国の守護聖人を求める風潮があり、ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書を書いた聖マルコの遺骸がエジプトのアレキサンドリアにあり、イスラム人に奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運びました。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人としています。
 10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大し、アドリア海沿岸への支配地域を拡大していきました。ジェノバなどの同じイタリアの貿易都市とは違い都市の周辺海域が大国・ビザンティン帝国の制海権内にあったためにイスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったこともイスラム諸国との関係を積極的に進める要因となったようです。11世紀に弱体化したビザンティン帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償としてビザンティン内での貿易特権を得ました。十字軍遠征とそれに伴うアジアとの貿易との拡大によって、ヴェネツィアは更に勢力を拡大しました。
 1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊はビザンティン帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となりました。13世紀に東方見聞録の著者であるマルコ・ポーロがヴェネツィアから中国へ向けて旅立っています。15世紀になるとオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われ、徐々に衰退しました。1797年、ヴェネツィアはナポレオン・ボナパルトに侵略され、1805年にナポレオン支配下のイタリア王国に帰属、1815年にはオーストリアの支配下に置かれるようになり、1866年にイタリア王国に編入されました。
 1987年、世界遺産(文化遺産)「ヴェネツィアとその潟」として登録されました。

ヴェネツィアのホテル

土地が少なく、観光客が多いためホテルの料金は高めです。サンタルチア駅周辺に安ホテルから高級ホテルまで数多くあります。サン・マルコ広場からリアルト橋への道沿いに中級ホテルが点在しています。ジューデッカ島にはユースホステルがあります。
ヴェネツィア本島から離れ観光には少々不便ですが、イタリア本土側のメストレ地区はリーズナブルなホテルが多いです。

ヴェネツィア地図

ヴェネツィアの地図
 
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ヴェネツィアの観光名所

カナル・グランデ  カナル・グランデ(大運河、Canal Grande)は、ヴェネツィア本島のサンタ・ルチア駅からサン・マルコ広場までを逆S字形に造られた長さ3800mの運河です。運河の両岸にはロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックと様々な様式の建築が建ち並んでいます。

サン・マルコ広場 サン・マルコ広場(Piazza San Marco):ヴェネツィアの表玄関で街の中心です。サンタ・ルチア駅前からボートでカナル・グランデを下り、アドリア海にでる所にある広場。ナポレオン・ボナパルトが「世界で最も美しい広場」と評したと言われています。

サン・マルコ寺院  サン・マルコ寺院(Basilica di San Marco):ヴェネツィアの代表的な建物で、ビザンティン建築の代表的な建物でもあります。聖堂内はビサンティンとロマネスク様式の混合したモザイクで飾られています。

ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale):ヴェネツィア共和国時代に総督公邸として使われていた宮殿です。もともとは要塞でした。火災での炎上などにより何度も改装されて15世紀頃に現在の白の柱とピンクのタイルが印象的なゴシック建築物になりました。内部には歴代のヴェネツィア総督の肖像画など沢山の絵画が飾られています。

ため息の橋 ため息の橋(Ponte dei Sospiri):ドゥカーレ宮殿の裁判所と牢獄を結ぶ橋は「ため息の橋」と呼ばれ、この橋を渡ると二度と戻れないと言われたことから囚人はため息をついて渡ったと云われています。海側のパリア橋から見ることが出来ます。

リアルト橋 リアルト橋(Ponte di Rialto):ヘの字のような形が特徴の橋です。長さ48m、幅22mで通路は階段となっています。アントニオ・ダ・ポンテの設計で1591年に完成しました。橋の両側には商店が軒を連ねています。

サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会(Santa Maria della Salute):丸い大きなクーポラを持ち、カナル・グランデの岸辺に建つ教会です。ヴェネツィアン・ゴシックの代表建築です。中央祭壇左側にある聖具室が必見と言われています。

大信者会(スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ、Scuola Grande di San Rocco):16世紀に建てられたルネッサンス様式の教会です。教会内部の壁面や天井は56枚もの巨大な絵画(ティントレットの作品)で埋め尽くされています。

アカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia):サン・マルコ寺院と並んでヴェネツィアで見逃せないのがこの美術館です。14~18世紀のヴェネツィア派やトスカーナ派の絵画が多く展示されています。

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